2025/09/28 知る人ぞ知る場所へ

普段、そうとは知らずに通り過ぎていた道路わき。

集落の奥まった一角や、ちょっと見落しがちな物陰。

長野市の広報番組ロケで、半日かけて市内を回った。

そうしたら、あちらこちらで「へえ~」の連続。

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市街地北端の浅川ダム近くで見つけた蝶「アサギマダラ」。

夏から秋の一時期しか見られない、渡りをする蝶だという。

海を越えて沖縄や台湾辺りまで旅をするのだとか。

出会えただけで幸福な気持ちになれた一日。

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他にも様々な蝶が舞うフジバカマの群落。画面奥が浅川ダム。

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欅並木の長さは約500m。神社の社殿からはその先端が見えない。

長野市南部の若穂川田にある長田神社の参道。

取材班も思わず「へえ~」っと樹上を見上げるほどの巨木。

神社の創建は1089年というから、900年以上も遡る。

身近にも知らない名所がまだまだあると思い知った一日。

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※ちなみに「知る人ぞ知る」は、その事情や価値を知る人には

 よく分かる、の意。(三省堂現代新国語辞典)本当にその通り!

2025/09/18 妻夫木さんが語った「戦後」

あす9月19日全国公開の映画「宝島」。

アメリカの施政統治下にあった戦後の沖縄で、

もがくように生きる若者たちが描かれた作品だ

主演の妻夫木聡さん、大友啓史監督にお話を伺う機会を得た。

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撮影前に沖縄のガマ(洞窟)を見たり、コザ(現・沖縄市)暴動の

体験者を直接訪ねて話を聴くなど、事前の勉強を重ねたという。

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「(沖縄の事を)勉強して学んできて、知ることは当然大事なこと。

 でも感じることを忘れてたのかもしれない。本当の意味で

 当時の人たちの声を聴かないと」(妻夫木)

妻夫木さんは丁寧に言葉を選びながらロケを振り返って下さった。

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大友啓史監督は私とほぼ同世代。かつて沖縄が舞台の連続ドラマ

「ちゅらさん」シリーズを手掛けた元テレビ人でもある。

「僕らが生きるための力になる大切なことが、あの時代の

 沖縄の歴史、この物語の中にたくさんあると思う」(大友)

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戦後80年の節目に封切られる注目の1本。

あす19日、県内のスクリーンでも上映が始まる。

(※写真:松本市の先行上映会で。右から大友監督・妻夫木さん・私)

 

 

2025/09/12 独り言

家に眼鏡を忘れてきました。

仕事場にはテレビ出演用のものが一本あるのですが、

大きな文字は読めても小さな文字は駄目なのです。

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新聞記事も細かな資料も朝から手につかず、

一度帰って取ってこようかな?

でも雨降りそうだし......。独り言でした。

2025/08/31 筆に込めた「戦争」

放送終了後も様々な方から反響を頂いている。

先週23日に放送した戦後80年のドキュメンタリー。

あの番組タイトルの題字を書いてくれたのが、

松本蟻ケ崎高校書道部の生徒さんである。

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戦後80年の節目に、若い世代にも戦争を考え学んでもらう。

そのきっかけとして、戦争番組の制作に「題字」という役割で

関わってもらえないか。

そんな私たちスタッフの依頼を快諾して下さった。

その後、届いた題字のデザイン案は7作品。

どれも魅力的かつ個性に溢れ、悩みに悩んだ挙句

スタッフによる投票で決したのが写真(上)の題字だ。

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海の拡がりを大きな「点」で表現したかったという

作者の思いを知ってか知らずか、プロデューサー(私)の

勝手な一存で、さんずいの一点を「海の青」にしてみた。

結果、「あの青が素敵でした」と生徒さんのお墨付きを頂いた。

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全国書道パフォーマンス甲子園で毎年見事な成績を残す

蟻高書道部と一緒に作った番組は、私たちにも自慢の一本。

先日、お礼に伺いつつ全員で記念写真に納まってもらった。

みんなイイ笑顔でしょ♫

(※前列左:顧問の橋渡みのり先生。後列右:中澤久美子ディレクター)

2025/08/15 ヒマラヤスギと戦争

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朝夕、毎日その巨木の下を通りながら、

存在を意識し始めたのはごく最近のことだ。

TSB局舎の前の交差点脇に立つヒマラヤ杉。

テレビ塔とまではいかないが、3階建ての局舎は優に上回る。

酷暑の昼間、木陰に入ると不思議と暑さを感じない。

他の日陰よりも涼しく感じるのは気のせいか。

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TSB開局前、ここは県農業試験場と農業大学校の北門があった。

古い資料によると、ここに農業試験場が移転したのは大正10年。

当時から立っていたとすれば、ヒマラヤスギは

あの戦争も見てきたということになる。

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昼間、自転車を漕ぎながら汗だくになって樹下に入り、

ほっと一息ついて巨大な幹を見上げてみる。

ヒマラヤスギは、独り黙って立っていた。

きょう8月15日、80年目の終戦の日。

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