あす9月19日全国公開の映画「宝島」。
アメリカの施政統治下にあった戦後の沖縄で、
もがくように生きる若者たちが描かれた作品だ
主演の妻夫木聡さん、大友啓史監督にお話を伺う機会を得た。

撮影前に沖縄のガマ(洞窟)を見たり、コザ(現・沖縄市)暴動の
体験者を直接訪ねて話を聴くなど、事前の勉強を重ねたという。
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「(沖縄の事を)勉強して学んできて、知ることは当然大事なこと。
でも感じることを忘れてたのかもしれない。本当の意味で
当時の人たちの声を聴かないと」(妻夫木)
妻夫木さんは丁寧に言葉を選びながらロケを振り返って下さった。
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大友啓史監督は私とほぼ同世代。かつて沖縄が舞台の連続ドラマ
「ちゅらさん」シリーズを手掛けた元テレビ人でもある。
「僕らが生きるための力になる大切なことが、あの時代の
沖縄の歴史、この物語の中にたくさんあると思う」(大友)
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戦後80年の節目に封切られる注目の1本。
あす19日、県内のスクリーンでも上映が始まる。
(※写真:松本市の先行上映会で。右から大友監督・妻夫木さん・私)
家に眼鏡を忘れてきました。
仕事場にはテレビ出演用のものが一本あるのですが、
大きな文字は読めても小さな文字は駄目なのです。

新聞記事も細かな資料も朝から手につかず、
一度帰って取ってこようかな?
でも雨降りそうだし......。独り言でした。
放送終了後も様々な方から反響を頂いている。
先週23日に放送した戦後80年のドキュメンタリー。
あの番組タイトルの題字を書いてくれたのが、
松本蟻ケ崎高校書道部の生徒さんである。

戦後80年の節目に、若い世代にも戦争を考え学んでもらう。
そのきっかけとして、戦争番組の制作に「題字」という役割で
関わってもらえないか。
そんな私たちスタッフの依頼を快諾して下さった。
その後、届いた題字のデザイン案は7作品。
どれも魅力的かつ個性に溢れ、悩みに悩んだ挙句
スタッフによる投票で決したのが写真(上)の題字だ。
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海の拡がりを大きな「点」で表現したかったという
作者の思いを知ってか知らずか、プロデューサー(私)の
勝手な一存で、さんずいの一点を「海の青」にしてみた。
結果、「あの青が素敵でした」と生徒さんのお墨付きを頂いた。

全国書道パフォーマンス甲子園で毎年見事な成績を残す
蟻高書道部と一緒に作った番組は、私たちにも自慢の一本。
先日、お礼に伺いつつ全員で記念写真に納まってもらった。
みんなイイ笑顔でしょ♫
(※前列左:顧問の橋渡みのり先生。後列右:中澤久美子ディレクター)

朝夕、毎日その巨木の下を通りながら、
存在を意識し始めたのはごく最近のことだ。
TSB局舎の前の交差点脇に立つヒマラヤ杉。
テレビ塔とまではいかないが、3階建ての局舎は優に上回る。
酷暑の昼間、木陰に入ると不思議と暑さを感じない。
他の日陰よりも涼しく感じるのは気のせいか。

TSB開局前、ここは県農業試験場と農業大学校の北門があった。
古い資料によると、ここに農業試験場が移転したのは大正10年。
当時から立っていたとすれば、ヒマラヤスギは
あの戦争も見てきたということになる。
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昼間、自転車を漕ぎながら汗だくになって樹下に入り、
ほっと一息ついて巨大な幹を見上げてみる。
ヒマラヤスギは、独り黙って立っていた。
きょう8月15日、80年目の終戦の日。
終戦間際、日本軍は「回天」という兵器を造った。
長さ14m余り、直径わずか1mの鉄の筒に
人間が乗り込み敵艦に体当たりする、いわば「人間魚雷」。
その出撃基地があった山口県周南市を訪ねた。
この町で生まれ育った戦没画学生のご遺族に会うためだ。

「今、芸大に入ると親子で乾杯してるけど、あの当時
美術の道に進むなんて‟非国民"だったんです」
こう語るのは、戦没画学生慰霊美術館「無言館」(上田市)の
共同館主である窪島誠一郎さん。

その窪島さんに画学生だった兄の遺作の一部を託し、
同時に他の絵を80年以上も守ってきたのが原田茂さん(87)だ。
取材中、会場に並んだ兄の絵を前に目を細めた。
「こんなに嬉しいことはないです」

窪島さんは講演の中で、テレビや新聞の紋切り型の戦争報道にも
厳しい言葉を向けた。
「反戦平和、無念の涙。あの四文字言葉やめてほしい。
そんな(気持ちで描かれた)絵は一枚もない。
彼らは、自分を絵の道に送り出してくれた家族に
ありがとうの気持をこめて描いている」
「ごく身近な人を愛しきった、絵はその証し」
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力強い言葉に、350人が埋めた会場からは嗚咽が漏れる。
カメラの横に立つ私も、思わず目頭が熱くなった。
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画学生の絵が伝える家族、故郷、あの時代のこと。
ご遺族の言葉、窪島氏の言葉の中から見えてくるもの。
あす15日の「ゆうがたGet!every.」(午後6:15~)でお伝えする。