サインの列に並んだのは、生まれて初めての経験だった。
15分ほど待っただろうか。私の手から受け取った著書に
その人は肉厚の万年筆でゆっくりと文字を書いた。
大柄な体躯と似つかず、驚くほど丁寧な、美しい文字だった。
盛岡から長野に転居して間もなかった私がその話しをすると、
「盛岡ですか。競馬の街ですね」と彼は目をあげて微笑んだ。
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伊集院静さん。私がこよなく愛し尊敬する作家と
たった一度、直接言葉を交わした23年前のあの日。
無類のギャンブラーであり、酒豪であり、切ない人の背中を
そっと押してくれるような優しい文章を書く人だった。
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「小説を読んでいますか?」
直球な問い掛けに、私は「はい」としか答えられなかった。
「いい小説をたくさん読んで下さい。きょうは有難う」
あの声を、笑顔を思い返しながら、今夜は何を読もうか。